眼鏡は非常にアイコニックな装身具だ。
顔という外界に最も曝け出された身体部位に身に付けるものであり、かつその部位の半分ほどを占める(コロナ禍はマスク着用だったので曝け出されているのは鼻から上、すなわち占める割合としては8割ほど)その影響力はもはや着用者にとっての名札、名前と同等以上のアイコンではなかろうか。
それはアニメに登場する眼鏡を掛けているキャラクターが証明してくれている。”ゴッドハンド”、”ファイヤートルネード”といった多感な時期の男の子にはたまらなすぎる技名が印象的なそれに登場する温室育ちを思わせる流れた前髪に、細いフレームの眼鏡を掛けているベンチウォーマー君の名前は”目金 欠流(めがね かける)”である。行為そのものが一生背負う名前になっていることにいささかの恐怖と同情を感じずにはいられないのですが、それほどめがねという装身具が着用者のアイコンとして機能するほどの力を備えている事なのだろう。(彼がコンタクトにして、眼鏡を掛けなくなったらどうなるんだろう。)
目金 欠流という名前の人間は現実には存在しないだろうが(そう信じたい)、近しいケースを知っている。
先日、職場で取り組み先の女性スタッフさんのメモが書かれた黄色い付箋が目に入った。そこには同僚の方の名前と僕の名前が書いてあった。
『”◯◯さん”と”眼鏡の男性”。』
あー、目金 欠流って僕じゃん。ちゃんと自己紹介していなかったヒトミシリな自分が悪いのだけれども。ところで僕が眼鏡を掛けなくなったらどうだったんだろう?”男性”だけになってたのかな。
「あのー、”男性”さん、今いいですか?」
それは悲しいなぁ。この世に”男性”なんて億いるし。
ヒトミシリな人は眼鏡をかけていると私みたいに救われると思います。”男性(女性)”って認知される心配は無くなりますから。
あー、恐ろしい。死ぬまで”めがねかける”。